最近のネットは※個人の感想が検索に出てこない!と訴えるエントリが少し話題になっていたのですが、こういう話を見るたびに、私はやれやれ、また昔のネット幻想か、と斜に構えてしまうところがあります。
テキスト中心だったネットにノスタルジーを感じるあまり、今のネットを低く評価してしまう、そんな動きが一部の人たちにあるような気がします。
そもそも今のネット、本当に個人の感想が見当たらないのでしょうか?
ついさっき、有名な海外ミステリの感想を検索してみたら、普通に個人ブログが何件も出てきました。
まぁ、昔はもっとたくさん個人の感想が読めたということかもしれませんが、今だってそれはそれなりにあるのです。
それはそれとして、です。
そもそも個人の感想って、検索で探して読む必要あります?
例えば本やマンガの感想なら、アマゾンや読書メーターでたくさん読めますよね。
楽天ブックスにもそれなりにレビューはあります。
こうしたサイトで感想を読めばいいわけで、検索でわざわざ感想を探して読むことは、私はしません。
私以外にもそうしている人は多いでしょう。
いやそうじゃない、もっと熱のこもった感想が読みたいんだ、魂の叫びをブログにたたきつけているようなのが欲しいんだ、という話かもしれません。
でもね、ここにも幻想が隠れているのです。
それは「魂の叫び幻想」です。
個人の生の感情・肉声をそのままたたきつけるのがいい文章なのだ、というこの幻想、テキスト中心時代のネットにノスタルジーを感じる人達が抱きがちなものではあります。
私にだってわからなくはありません。どこかテンプレ化した言葉ばかりが独り歩きしている今のSNSを見ていると、昔はこんなんじゃなかったんだけどなぁ、と言いたくなるのは確かです。
でも、「こんなんじゃなかった」昔のネットだって、別に大して美しい場所ではなかったのです。
そもそも今のネットにだって、魂の叫びはあちこちにあふれているんですよね。
それはXだったり、はてな匿名ダイアリーだったりといった、あんまり治安のよろしくない場所に置いてあるのです。
こういうところに出てくる「魂の叫び」は、目をそむけたくなるものも多いものです。差別的なものもあれば、もっとましな女(男)をよこせだとか、こういう表現が気に食わないだとか、身勝手なお気持ちを拡声器でがなり立てるようなものが多い。
そういうのは、昔は個人ブログにあったのです。ポリコレの縛りがゆるく、まだ「ネットは世間とは別」という空気も強かった平成の世にあっては、これらの醜い声もそれなりに普通の場にあったのです。
ですが、ネットの倫理観が向上するにつれ、これらはしだいに隅に追いやられるようになりました。これは、時代の必然です。
結果として、表の場はだんだんお行儀がよくなり、一部の炎上屋以外は過激なことは言わなくなってきました。
ネットはだんだん清潔な場になりつつあるのです。
それが退屈だ、という気持ちはわからないでもないですが、昔が今よりはるかに良かったわけでもないのです。
少し話がそれました。
先に書いたとおり、個人の感想なんて今でもあちこちに存在しますし、探すのに困ることはありません。
となると、個人の感想が見つからない、という嘆きは、文字通りに受け取ることはできないのです。
つまりこれは、テキスト中心時代のネットが変わってしまったことに対する嘆きなのです。
こうした意見を言っている人たちは、自分が長文テキストの書き手であったりするものです。そして、そうしたテキストが日の目を見なくなったことに不満を持っているのです。
その不満に曇った眼でネットの現状を見ているから、今そこにある「個人の感想」が見えなくなっているのです。
今のネットはダメ、という前提でものを見るから、そこにいいコンテンツがあっても目に留まることはありません。
人は思い込みに合致する「現実」しか見えないんでしょうね。
私は、今のネットにだっていいものはたくさんある、という前提でネットを眺めています。
なので、おもしろい動画がたくさん目につきます。
動画が受け入れられるなら、むしろ今ほどネットのコンテンツが豊かな時代もありません。
そしてこの時代は、テキスト主体のネットで存在感を発揮した人達にとっては面白くない時代でもあります。
こうした人達のネットへの愚痴はポジショントークと考え、割り引いて捉える必要があるのです。