lstf's blog

いつでも好奇心

インターネット古老の「今のネットはダメ論」を真に受けてはいけない理由

最近、古くからネットをやってる人達の愚痴やぼやきが聞こえてきますよね。

「昔は誰もが好きなコンテンツを情熱をこめて作っていた。今はカネ目当てのやつばかりになった」

「今はツイッターYouTubeも炎上目当てのやつばかり。昔はもっと穏やかな空間だった」

とかね。

でもこれ、あんまり真に受けちゃいけない類のものですよ。

 

確かに昔のネットはマネタイズが難しかったし、お金目当てで何かする人が少なかったのは事実です。

でもそれは、才能がお金という形で報われなかったということでもあるのです。

才能のある人がいても投げ銭できるわけでもなし、クラウドファンディングで集金できるわけでもなし。

だからこそ情熱だけで突っ走れる人ばかりだったわけですが、多少なりともコンテンツにお金が払われるなら、もっとやる気が出る人も多かったでしょうね。

お金が入ればもっとコンテンツに力を注げるし、創造物のクオリティも上がります。

そのサイクルが回らないから、昔のネットはコンテンツの質もたかが知れていたのです。

 

「お金も承認も欲しがらず、ただ好きなものを創ってる人が見たい」

なんていう人がいますが、はっきりいって、こんなのただのやりがい搾取です。

よく言いますよね。「日本は研究者の待遇が悪すぎる」って。

いい研究をしてほしいなら、それなりのお金が必要です。

それと同じで、ネット上にいいコンテンツがほしいなら、作り手にはお金が回る仕組みが必要なのです。

自分はなんの対価も払わないのに、ただ「情熱が込められたコンテンツがほしい」なんていうのは、ないものねだりです。

コンテンツは空から降ってくるわけではないんですよ。

 

そもそもこの「今のネットはカネ目当ての奴ばっか!」と言ってるのがどういう人たちか、というと、文章主体だったネット世界で一応の存在感を示した人たちです。

動画のないネット世界では、ある程度まとまった長文が書ければ、それなりに読まれることもありました。

そういう人たちからすると、今の動画主体のネット環境はよろしくないわけです。ユーチューバーやTiktokerの存在が大きい今の世界では、相対的に文章家の存在感が薄れてしまうからです。

つまり、「オレが目立てなくなるのが寂しい」が、これらのネット古老の本音なのです。

それを正直に言うのはみっともないので、「炎上でカネ儲けしようとする奴ばっか」と主張しているのです。

全体からすると炎上屋なんてごくわずかで、いいコンテンツを作る人がそれなりに報われるようになってきているのが今のネットなわけですが、ネット古老はそうした部分は見ようとはしません。

自分の生み出すものが、今の良質なコンテンツにとうてい太刀打ちできないことを認めたら、心が折れてしまうからです。

 

結局人間、自分が一番居心地がよかった時期を黄金期と思ってしまうのです。

将来、YouTubeもいずれ何かにとってかわられる時が来るでしょう。

その何かは、おそらくAIを利用したものになるでしょう。

そのとき、ユーチューバーたちはこう言うでしょう。「自分たちは手間暇かけて、しっかり動画を作り込んでいた。なのに今の若い連中は、AIの力で楽してコンテンツ作りやがって……」と。

でも、それはかつてブロガーたちが来た道なのです。

かつて一世を風靡した文章家たちは、動画主体の時代にルサンチマンを抱いています。

そして今度は、今一世を風靡している動画の作り手たちが、次世代の何かにルサンチマンを抱くようになるのです。

その頃、文章コンテンツはどんな扱いになるでしょうか。

太古の遺物扱いなのか、それとも再び脚光を浴びる時が来るのか。

それはわかりませんが、確かなことは、炎上商法は過去の遺物になるということです。

人間に求められるモラルが上がり続けている以上、こうした商売のやり方はもはやシステム上禁じられることでしょう。

迷惑系ユーチューバーも、ツイッター陰謀論者たちも、ネットが野蛮だった時代の遺物として回顧されるようになるのです。

それがどれくらい先の未来かはわかりません。でも、そう遠くない未来であるような気がします。