年齢とともにゲームがめんどくさくなることを「悲しいこと」ととらえる向きがありますよね。
でも私は、これはむしろいいことだと思っています。
年を取ればそれだけ社会的責任が増え、家庭に使う時間だって増えるのだから、ゲームができなくなるのは当然です。
それは人生のステージが変わったことの当然の結果、ともいえるでしょう。
とはいえ、年齢を重ねれば地位が上がったり、家庭をもつとは限りません。
ゲームをする時間はあるのに、楽しむ気力がないことは確かに悲しいと思えるかもしれません。
でも私は思うのです。人間、年齢に応じた楽しみを追求すればいいのでは?と。
こんな記事を書いているくらいだから、私も子供のころは大のゲーム好きでした。
代々のドラクエやFF、ファルコム作品などを楽しんできました。
でも、20代半ばを過ぎるころから、ゲームを遊ぶことが面倒になってきました。
面倒なだけならともかく、罪悪感を感じることすらありました。いい年してこんなことやってていいのか、と。
でも、これはある程度仕方のないことだと思います。ゲームは要は遊びですし、読書をしたり運動をしたりするほどには、人生の役には立ちません。
冷静に見れば、「時間をドブに捨てている」という一面が、確かにあるのです。
その一面を冷静に眺めるなら、年齢とともに没頭できなくなるのも仕方がないでしょう。
「本来もっとやるべきことがあるはずだ」と、脳がささやきかけてくるのも当然なのです。実際、20代や30代の時間は貴重ですから。
加えて、年齢を重ねると物事のパターンが見えてくる、というのもゲームの面倒くささを加速させます。
新作を遊んでいるはずなのに、「これって結局同じことの繰り返しじゃないの?」と思えてくるのです。
自分の場合、これはアサシンクリードオデッセイをプレイしているときに強く感じました。
ひたすら作業を続けてなんになるのか……という思いが、どうしても断ち切れないのです。
こういう体験を繰り返すうちに、もうそろそろゲームは引退しようかな、という気になってくるんでしょうね。
繰り返しになりますが、人間、ある程度年齢に合った楽しみ方というものがあると思います。
私は保守的なところがあるので、余計にそう感じます。
思うに、中年期というのはただ娯楽を楽しむだけでなく、自分を省みたり、内面を見つめたりする時間が必要になるのではないでしょうか。
ある程度の年月を生きてきて、さてこれからどうするのか、何に価値を置いて生きるべきなのか、といったことを一度立ち止まって考える必要に迫られるのです。
娯楽に没頭するのは、大げさにいえばこういった問いから目を背けることでもあるかもしれません。
私は自分と向き合う必要性から、古今の哲学者の思想や仏教、自己啓発やポジティブ心理学など、さまざまなものを学びました。
これらの書籍には人生をいい方向に導いてくれるものや、日々の生活を充実させてくれるものもあり、はっきりいうとゲームよりはるかに面白いと思いました。
ゲームはあくまで虚構世界のものですが、本で得た知識は人生そのものをよくすることに使えます。
どうせ攻略するなら人生そのものを攻略したほうがいいのでは?という発想が出てくると、ゲームやってる場合じゃないな……となってくるのも自然なのです。
そこまで前向きに考えなくても、私は単純にゲームより読書のほうが面白いと思います。
ゲームは遊べば遊ぶほど飽きますが、本は読めば読むほど知識が増え、次の読書がさらに楽しくなります。
何より読書はゲームと違い、攻略する必要がありません。日本語さえ読めれば読み進めることができるのです。
面倒なことが何もなく、読んでいて罪悪感を感じることもありません。
こうなると、どうしたってゲームより読書にかける時間が増えていくのです。
その読書で得た知識に、ゲームはドーパミンを放出させてゲーマーを虜にする、というものがあります。
Vampire survivorsのようなゲームをプレイしていると、このことがよくわかります。
ドーパミンを放出させるものとしては、ゲームの他にはお酒やギャンブルなどがあります。つまり、ゲームには依存症ビジネスの一面があるのです。
ドーパミン中毒は人を幸せにはしません。人を幸せにしてくれるホルモンはセロトニンやオキシトシンです。
セロトニンは有酸素運動や筋トレで確実に出せるので、最近はゲームより運動に凝っています。
なぜゲームが楽しいのかという仕組みを知ると、よけいにゲームをする気がなくなっていくのです。
ここまで書いてきたことは、ゲームが楽しい!という方にはまったく余計なお世話だと思います。
ですが、ゲームが楽しめないという悩みを持つ方にとっては、何かしら役立つかもしれません。
ゲームより有意義で、生活を向上させてくれることはたくさんあります。ゲームが楽しくないのなら、もっと人生をよくしてくれることに時間を使えばいいのです。
ゲームが遊べなくなったことを「若さを失った」と悲観的にとらえる必要はまったくありません。
むしろゲームから自由になれ、より自由に時間を使えるようになったと考えればいいのです。